<マインドフルネス>-その意味
マインドフルネスはMind(こころ)がfull(行きわたった)ness(状態)で「開放的で、とらわれないこころの状態」のことを言い、日本語では「気を付ける」「目を届かせる」といった状態と考えればよい。
マインドフルネスは仏教で悟りを開くための瞑想法の英訳であるが、意外なことにその定義はいまだに確立されていません。主な趣旨を列記してみると、
*1)注意の意図的なコントロールよって原体験に対する認識が高揚し、2)好奇心とオープンで寛容な態度が伴う、の2点が強調されている。(共通項)
*「注意を払う特定の方法で、意図的であり、現時点に焦点を定め価値判断を下さない」が作業定義として一般的であり、「オープンで流動的な注意を保ち、何事にも固定されず、思惟や分析を避け、脳裏に浮かんだ思考や感情、感覚の変移に逆らず、寛容でこだわらない態度」と付け加えられることがある。
*(大谷は)『マインドフルネスを『今ここ』の体験に気付き(awareness),それをありのままに受け入れる態度及び方法』としている。「刻々と変化する『今ここ』の体験に気付くこと」である。
*こころに生じるありとあらゆる反応、いわゆる「自己」を『今ここ』でありのままに見つめるがマインドフルンネスである。
*マインドフルネスは自覚を深め、こころの安定化、ひいては自己と他人に対する思いやりと共感を築く手段である。
*マインドフルネスは情動調整の働きもあり、これが現実適応によってメンタルヘルスに有益である。
*マインドフルネスの真意は情動調整を図り、対人関係を改善し、他人に対して思いやりを持つことにある。
*マインドフルネスは気づきの実践であり、時と場所に関わりなく、ありのままの現実をみつめることにほかならない。
*マインドフルネスの言う気づきとは「何かが漠然と意識されるような受動的な気づきではなく「それまで無自覚であった事柄や、ありとあらゆる行為、反応に注意を向けその結果として物事が意識化される」という能動的なニュアンスを含んだ気づきである。
ヴィパッサナー瞑想(オープンモニター、観想、ミャンマー式)とサマタ瞑想(フォーカストアテンション,止観、タイ式)
ヴィパッサナー瞑想は「知覚している(心の働き)の一つずつすべてに気付き続けるようにする」のが原則で、あらゆる事柄に対して「選り好みすることなく注意を払う自由闊達な瞑想法」である。
サマタ瞑想は「観察の対象が1つに限定され、常にそれに還り続ける」のが特徴で「注意を意識的に特定のこと(呼吸、イメージ、概念、ロウソクの炎など)に集中させる没入的な方法であり、注意を一点に集中させた精神状態から意識変容状態が生じ、これを習得してから洞察を深める瞑想へと進む」瞑想法であるが、実践では両者の区別はそれほど厳密なものではないとされている。
実際には精神集中をマスターし、それを習得してからからヴィパッサーナ瞑想のような「選り好みすることなく注意を払う」マインドフルネスにという連続性のあるものです。呼吸に意識を集中し呼吸に注意を安定させるようになると、注意はオープンで流動的に保ち、何事にも固定されないものになります。
ここで注意すべきことは、マインドフルネスの気づきとは、「何かが漠然と意識される」といった受動的な「気づき」ではなく「それまで無自覚であったことがらや、あらゆる行為、反応に注意を向け、その結果としてものごとが意識化される」という能動的なニュアンスを含んだ「気づき」であることである。
実際には、目を閉じて呼吸に注意を向けると、周囲のさまざまな出来事や、考えや気持ち、記憶などに気づきます。ヴィパッサナー瞑想ではこうした内外に生じた事柄に意識を向け、他に気づいたそれに注意を払い続けます。これに対してサマタ瞑想では注意を絶えず呼吸に置き他に気づいたことについては、それを認識する(タッチ)にとどめ注意を再び呼吸に戻すことがポイントになります。
慣れてくると、呼吸に注意を安定させ、しかも同時に雑念にも気づくことができるようになります。
この時の呼吸はあたかも小高い丘にそびえる灯台の明かりのようなものになり、心の大海の隅々を照らし、闇にぼんやりと潜んだ意識を鮮明にしてくれる感覚になります。マインドフルネスの到達点は同じなのです。
マインドフルネスの実践によって注意を一定の間呼吸に保ち続けることは、シンプルで簡単なようですが、実際にはむつかしいものです。刻々と変化する心の流れをオープンな態度で批判することなく注意し続け、繰り返し呼吸に意識をむけることは決して容易なことでてを養い、それを会得してからヴィパッサーナ瞑想に段階的に進めていくのがサマタ瞑想です。
いつものように呼吸しながら、息が体内に入り、再び出ていくのを観察しなさ
い。もし心が乱れて、注意集中が難しければ深呼吸をしなさい、肺を一杯満たして空にすることを数回繰り返してから、注意を再び呼吸に戻すのがよい。心が落ち着いたり、乱れたりするのは当然の現象です。マインドフルネスの実践は時間を要し、絶えることのない訓練によって進歩していくのです。(アーチャン・チャー師)
注意集中は難しいものです。当初は意識が呼吸に向かわず。あちこちに散乱しがちです。これを猿が枝から枝に移動するのに例えてモンキーマインドと呼んでいます。しかし訓練によってこれは必ず克服できるものです。瞑想訓練が進み体験が深まってくると自ずと心身への影響が感じられるようになります。荒々しかった呼吸もそれに応じて軽くなり洗練されてきます。身体は軽く感じられ、心にも軽快さが増し、負担がかからず周囲のことがらにとらわれないようになります。
ものごとに対するとらわれ(rumination)からの解放は、臨床的には身体醜形障害(症)、うつ、パーソナリティ障害(特に境界性)の治療上の臨床効果があります。
呼吸に意識を集中し続けるとマインドフルネスは一層強固になり、呼吸の中心にこころが集結し意識は外界から遠のき、外に向かって働きかけなくなるのです。
これがサマタ瞑想が目指す精神集中でヨーガや仏教でいう「三昧」と呼ばれる状態です。
この状態で活発なイメージや幻覚体験といった意識変容が起きることがありますが、一時的な現象であり不安がる必要はありません。呼吸が止まったように感じられてもパニックを起こすことはなく、呼吸のない状態を観察し、それを気づきの対象として意識にとどめ、再び呼吸に意識を戻すのです。こうした経験をしながら訓練を続けると次のようせん妄な状態に達します。
*意識変容(意識野の障害)
意識野は舞台の照明が当たっている範囲に例えられ、その範囲が狭くなるのが意識狭窄です。意識狭窄では意識の清明度が低下し幻覚、一過性の妄想、夢体験、不安状態などの精神状態を伴うことが多くこれを意識変容といいます。「もうろう状態」と「せん妄」があります。「もうろう状態」は、軽い意識混濁と強い意識狭窄に幻覚や夢体験が加わったもの人格違和感を覚え、しばしば抑制欠如と無反省を呈します。後で思い出すことはできません。「せん妄」は、軽い意識混濁と強い意識狭窄に強度の認知障害を伴うもの言います。この状態では環境認識が困難になり見当識も障害され、無意味な感覚刺激が錯覚や幻覚となって現れ、それに対して混乱や動揺を呈します。錯乱状態とも言います。
結局恐れることなど何もないことがわかるだろう。不安が漸減してリラックスした感覚をしっかりと心に植え付けなさい。こうした精神安定状態をほんの少しの時間でも体験すると数日にわたって落ち着いた安らかな気持ちが続く。心が浄化され自己のあらゆる体験が黙想の対象となる。
仏教ではこれを「こころの平静(equanimity)」と呼び心の安定した状態を指します。
この平静なこころを活用し、自己の体験から始めて精緻に観察し、自己の内面を深く浸透させることによって最も深遠な至福に達することができる。この知恵がうまれることによって体験すべてに対して恐怖心がなくなる。というのは体験と同時に何が起こっているか瞬時のうちに認識し、研ぎ澄まされたマインドフルネスによってそれらに対するとらわれがなくなるからだ。
単にマインドフルネスから生じる精神統一状態に満足するのではなく、それを生かして深い自己洞察を図り、囚われのない「今ここ」の生活を送る。これが真のマインドフルネスの目的です。