紀尾井町界隈-思いもかけず居心地の良い街
地下鉄有楽町線麹町駅一番出口を出ると、目の前が麹町4丁目の交差点であり、その左手にブロンズ像が立っている。近づいてよく見ると、竹竿を持った少年の像である。台座には「夏の思い出」とある。初めて見た時は、おそらく9月頃であろうか、その時は法被を着ていたが、11月に見た時は、消防服を着ていた。衣替えをしていたのである。
ということは、誰かが管理しているのだろうと思い、ネットで調べてみた。
麹町ウォーカーという麹町が好きな人が書いているブログがあり、その中で、「麹町大通りとブロンズ像」という記事が見つかった。
ブロンズ像はJR四ッ谷駅前の「サンサン広場」に、「トンボ釣り」という題名の幼い少女と弟がトンボを取ろうとしている姿が表現されたものがあるそうで、その他にも半蔵門方向に向かって、数百メートルごとに一体づつ、全部で6体置かれているそうである。
どうやら、麹町という事務所ビルばかり並ぶ無機質的な街に、住民が潤いを与えようと、一種の町興しのような企画で作られたものらしく、スーパーの中に置かれた「麹町地区環境整備協議会」という組織が管理しているという。
街中にノスタルジックなブロンズ像を置くなんてちょっといいなあ、と思いませんか。
ちなみに半蔵門から四谷見附までの大通りは、正しくは新宿通とは言わず、麹町大通りというそうである。甲州街道(新宿通り)は四谷見附までとのことであり、その昔、四谷見附は、甲州街道の始まりで「国府路口」とも言われ、一説では、それが麹町の名の由来とも言われている。
番町、麹町は、江戸時代は、大番方と呼ばれ、いわゆる旗本八万騎と言われた御家人の屋敷が集められ戦闘集団を形成し、江戸城の西方への防衛の要衝とされたという。一番町から6番町まで6個の部隊に編成され、それが今に名前を残している。
また一言で麹町というが、住所表記では、紀尾井町,平河町が接し入り組んでいる。
紀尾井の名は、江戸時代に紀州徳川藩、尾張徳川藩、井伊彦根藩の三藩の屋敷があり、その名前をとって明治時代に紀尾井町としたという。赤坂プリンスが紀州藩邸、ニューオータニが彦根藩邸、上智大学が尾張藩邸跡に当たるという。三藩は、徳川親藩の中でも別格であり、旗本八万騎に加えて、ここに置かれたのも、豊臣率いる、大阪への強い軍事的配慮が表れているのである。
この辺りは標高も比較的高く防衛的立地に優れており、神田の山を削って、隅田川周辺の湿地を埋めたて町人を住まわせた辺りを下町というに対し、番町麹町あたりを山の手と呼んだそうである。
徳川家康が豊臣秀吉に関八州の領地替えで、東海地方から追いやられた時は、江戸は民家100戸足らずの葦の生い茂る湿地帯で、新橋、虎の門から日比谷あたりまでは東京湾の入江であったそうである。家康は、地味豊かな三河、駿河を奪われ、家来、商人を引き連れて江戸に来るや、武士をも駆り出して精力的に湿地の埋め立てを行い江戸の町を作り上げていった。
それゆえ、三河武士の忍耐強さは培われ、家康の天下取りに大いに貢献したし、商人も三河屋、駿河屋という屋号で酒、醤油を商い、今に続くのである。
僕は家康の生誕の地、岡崎市の出身なので、三河人の艱難辛苦、臥薪嘗胆、じっと屈辱に耐え、いつの日にか思いを遂げようとするレジリアンスの強さにシンパシーを感じるのである。
くしくも新しいクリニックをこの地で開くことになったのも、「意味のある偶然の一致」かもしれないと思ったりするのは日頃から自律統合性機能主義を唱えているせいかもしれません。
クリニックの昼休みに、近くを散歩すると以外にも緑が多いのに驚かされる。
徒歩数分のところに、紀尾井の森、清水谷公園や、梅林坂公園があり、お弁当を食べたり、散歩するのにちょうど良い。
清水谷公園内には大久保利通の暗殺された殉難の碑や、玉川上水の石樋などがおかれている。
自分的には、清水谷公園は学生時代には、全共闘の国会デモの集会場所になっていて、よく来た思い出が強い。霞が関に近い絶好の位置関係にあるが、今思えば、公園からの出口の道路は狭く、逃げ道も無く、機動隊がデモ隊を一網打尽にし易く、敵には警備しやすい立地であったのである。
梅林坂公園は、都市センターホテルの隣に位置し、坂道に沿って川が壇状に流れ、手入れの行き届いたきれいな公園である。
都市センターホテルは、昔は都市センターホールと言われ、今はすっかり綺麗になっているが、当時は建物も古く汚かったので、賃料も安く、潤っていない学会は、よくここで行われたものであった。
ここは勉学に励んだ若い頃の思い出の場所でもある。
僕のクリニックの入っている建物はプリンス通りから、50メートルほど入ったところにあるが、それだけ入るだけで、閑散とし静逸といえるほど静かである。周囲は、とてつもないお屋敷や公益財団法人のような、いわゆる天下り官僚の受け皿財団が軒を連ねているから、人の出入りも少なく、建物もきれいで景観もよいのである。
また、紀尾井町、平河町のビルの谷間や地下に、そんなに有名ではないが、古くからある、質の良いビストロ、リストランテや和食屋がポツポツと結構ある。夜になるとそんなお店の灯りが暗闇の中にポツリ,ポツリと点り、色街とも違う、独特の雰囲気を出している。
僕の職場は、信濃町に35年以上、(その間に名古屋に2年半、長野県に1年半、パリに1年居て、)その後は高崎に4年居て、またこうして紀尾井町になった。信濃町は長すぎて、良い悪いの問題ではなくなっていたが、直近の高崎は環境に馴染めずに、砂を咬むような不毛な月日を過ごした。
紀尾井町は、果たして何年になるか予想もつかないが、都心でありながら、故郷に繋がる息吹が感じられ、なんとなく肌が合いそうな直観がし、早くも愛着を感じつつあるようである。
生活する環境の相性も、男女の出会いにも似たものであり、結局はファーストインプレッションで決まるのであろう。
つまり、クリニックのスタートはなかなかいい感じなのである。
この辺りは、グルメ情報誌にも、あまり紹介されることもなく知らない人も多いと思うので、今後のグルマンライフでは、この近辺のお店を紹介して行こうと思う。