心脳問題と量子論-その1
人間の心はどこにあるのか?心は物であるのか?心と身体とはどんな関係があるのか?などの疑問を哲学では『心身問題」というそうであり、人類が誕生し自分たちの心というものに気づいてから悩み続けてきた問題であり、伝統的な哲学的な、未解決問題であった。科学者が心の問題に関わるのは、キリスト教的な世界観の中ではタブーとされて来たので、科学がこの問題に関わるようになったのは近年以降のことである。現代の理解では心が「脳」にあることは、まず間違いない合意事項となったので,「心身問題」は「心脳問題」と言うようになった。私達の身体は分子、原子、さらには量子、素粒子などの物質から成り立っており、物質は合成して作ることが出来るが、生命は作れないことから、心脳問題は「生命とは何か」という、もう一つの大きな未解決問題とも底辺では繋がっていると思われている。心の問題はギリシャ時代から、一元論、2元論の2つに分けて考えられ、それは形を変えつつも現在に至っており、理論物理から哲学に転じたBungeはそれらを10型に分け、わかりやすく説明している。(図1)
二元論は、「心」と「身体」を別のものとみなす考えで、肉体から離脱した「霊魂」を考える有史以来のもので、中世までは宗教的な理念とも両立できてきたが、自然科学の進歩の中で、実証主義が人間の理性を主張し始めると、キリスト教的世界と融和してきた二元論の根拠が必要になってきた。デカルトは徹底した懐疑主義から「コギト・エルゴ・スム(われ思うゆえに我あり」を唱え、「考えている自分の存在(身体)」と「自分が考えている事実(心)」は二つに分けられるとし、機械的宇宙論の中で心身二元論をうまく説明した。心は脳と異なり物質的実態のないものであり、古来から生命の根源とされて来た気息(ティモス)の考えを延長させ、気息は脳の松果体に宿り、神経伝達物質の様に全身をめぐるとし、脳の松果体を通して、心と体がつながって作用(心が脳を制御する)しあうという相互作用説をいった。デカルトがなぜ松果体を持ち出したかと言うと、松果体は人間の脳にしかないと考え、さらに脳の正中に一個だけ存在していることを根拠にしているにすぎないという。デカルトは客観と主観の仲立ちとして神を持ち出したように、どうも、交わらない二つの領域に仲介者を立てる論法が好きらしい。しかし、松果体は物質としての脳の一部であるし、松果体や気息がどうやって心を生み出しているかの合理的な説明はなされていない。これは、脳に働きがあるのは、脳の中に小人が居て、いろいろ働くからだと言うものの、それでは、小人の脳の中に小人はいるのかと、問題が循環され無限に繰り返す「ホムンクルス問題」と基本的に変わらないことになる。
二元論は現代でもPopperや日本の西脇与作にも論文がある。
二元論は何も哲学者だけのものではなく現代においても、ノーベル賞受賞脳科学者のEcclesは最新の脳科学の知見に基づく「心脳相互作用説」を提唱している。これはかなり面白い。自由意思(自我)が脳とは独立して存在し、それが補足運動野に働きかけニューロンが生まれ運動野に伝わり自発的な運動が起きるという。そこで脳と独立した自我が、どのように補足運動野のニューロンに働きかけるかについてであるが、それをカオスの揺らぎ理論(量子論)で説明している。自我は大脳のプログラマーであるとし、補足運動野が脳と自我を連絡する「連絡脳」であるとする、つまるところは、デカルトと大差ないような説であり、多くの脳科学者は賛成していないが、Penfieldなど少数ではあるが支持者もいる。
チャルマーズも、脳とは別に心があるとし脳の活動に心が付随しているという二元論随伴説を唱えた。しかしその随伴する原理は一向に解明されておらず、チャルマーズは「哲学的ゾンビの話」という思考実験で一元論の還元主義を否定したに過ぎない。
一元論は、ヒポクラテスが「心は脳の営み」と提唱したことに始まり、プラトンもそれを支持したが、弟子アリストテレスによるプラトン説の否定やキリスト教の影響下で広まることはなかった。また、近代では心理学の行動主義が二元論を支えてきたが、行動主義の終焉と神経科学の到来が「心は脳の活動である」とする一元論、還元論的唯物論の勢いを強めてきている。一方、観念論に近い一元論も現代でも存続している。大森荘巌は「無脳論の可能性」で脳が無くとも心はありうる、と述べているし、一方養老猛司は「唯脳論」を言っている。
自然科学の発達は、この世のものはすべて物質で出来ているのだから、脳の物質を究明すれば心もわかるはずであるという考えをもたらし、神経細胞の集団の営む過程が心の働きであり、集団全体の持つ状態が精神状態を示すとし、さらには脳神経細胞の発火によって心が生まれるのであって、心も物質に還元されるという還元主義が生まれた。しかし神経細胞と神経伝達物質の構造や作用がどんなにわかっても、それが心であるという説明には全く至っていない。唯物論で証明するには、自然現象を数式で明らかにした物理学の様に、心の数式を見つけて、それが現実に観測される心の状態と一致する事が必要であり、また方程式に変数を入れると予想通りの心の状態が現れてこそ物理理論で解いたことになる。しかし、そうなると、まさしく心が因果律で説明されることになり心には自由が無く、自由意思を一切否定することになってしまう。
もう一つの一元論が心脳同一説であり、これは心と脳は同じモノであり、同じモノが心に見えたり、脳に見えたりするという考えだが、丁度、量子物理学で、光が波であったり粒子であったりするのに似て魅力的な発想ではあるが、量子を説明できるような概念は心脳問題ではまだ見つかっていないし、仮説すら出てはいない。
現在では、当然のように、自然科学的なアプローチである唯物論の研究者が最も多く、「クオリアの概念」を日本に広めた茂木健一郎も、脳の中の分子は物理法則によって動いている、脳に意識が宿ることによって分子の動きが変わることはないし、人間には本当には自由意思はないという意見であり、ニューロンンの発火が心を支えており、一つのニューロンの発火の様式を決めるのはニューロン同士の結合のパターンである、と言っている。(続く、、、。)