エリクソンライフサイクル④-Ⅴ期。
2017年04月17日
Ⅴ期。思春期・青年期(13から22歳)「アイデンディティ/アイデンディティの拡散、」-仲間を鏡にして自分を見出す
エリクソンによれば、13歳から22歳ころまで、中学生から大学生の時期を思春期青年期という。
普通発達心理学では、児童期と成人期の間の幅広い発達区分を青年期とし、それを更に青年前期、青年中期、青年後期3期に分けて記述するのが常である。また思春期の用語も使われるが、それらの関係は13歳から15歳の中学生の時期を青年前期あるいは思春期前半とし、16歳から18歳の高校生の時期を青年中期、あるいは思春期後半とし、19歳から22歳の大学生の時期を青年後期とする分け方になる。本来エリクソンのパーソナリティの発達段階は、個人差が大きいのではっきりと暦年齢では区切るのは適当ではないとしているが、我が国では、思春期に重きを置くのか細分化して論じる傾向があるようである。
思春期・青年期はアイデンディティ(自己同一性)がテーマになる。
「自分はこういう人間なんだということを知ること」である。自分がわかる、自分自身を客観的な目で見られるということ、「自分が他人にどう見られているかを意識すること」、つまり公的自己意識が高まって来るのである。
学童期までは何事も主観的に考え、人が自分をどう見るなんて気にしないのが普通であり、自分は、自分が考えるイメージ通りの人間だと思っている。それが自分は思った通りの人間ではないと気が付きだし、人に言われて客観的に自分が見えてくるようになってくる。
友人など周りの反応を見ながら自己認識、自己洞察が出来るようになってくる。
従って学童期まではたくさんの友達と交わり、色んなものを共有し合っておくことが大事となる。
思春期になると、不特定の友人の中から価値観や主義、信条の合う仲間や親友を作り、その仲間や尊敬出来る先生との関係を自分を映す鏡とし、自分がどのような人間かを見出していくようになり、自分の価値、能力、長所、逆に欠点、短所、弱点を知っていくことで自分の適正が自覚されるようになり自分の社会的役割が見えてくる。そうゆう活動を通して自分を見出していき、アイデンディティが固まってくるのである。
その過程で親離れをするが、それは親から完全に離脱するのではなく、距離が遠くはなるが適切な距離を保つことが大切であり、親との距離を適度に取って、仲間たちの付き合いのなかで自分を見出していくのが健全な成長である。この過程が無いと不安定なまま20代に入ってしまう。
別の言い方をすれば、学童期までのテーマとして、学校の先生とか、家族の周囲の人たちを理想の人物として同一化し、模倣していたものが、その人の欠点や、その人と違う自分に気付くようになり、理想と失望のプロセスを通して、本当の「自分とは何者か」「自分は何をやりたいか」が見えてくることでもある。他人の影響から脱して自分が自分の主人公になっていくということ。これを同一化から同一性へのプロセスというが、これは、自分で自分を作っていこうとする心の動きであり、決定したことの責任は自分で負うという孤独を味わうことを意味し、多くのエネルギーを必要とする。
青年は、このプロセスの中で、「自分が何であるか」「自分の社会の中での位置づけ」「思想的信念や価値観」を獲得していく。
この過程で、孤独感に耐えられない人は、決定のプロセスを人に任せたり、人の言いなりになって回避したり、決定を先に延ばし逃げてしまう。決定のプロセスから逃げ出すということは、自分から逃げだすことと同じであるから、自分をますますわからなくなってしまう。これをアイデンディティの拡散、混乱という。
そのような場合は、アパシーやモラトリアム、引きこもり、ニートになる可能性が出てくる。しかし本当はアイデンティティの拡散、混乱と言う思春期青年期だけの躓きというより、乳幼児期の愛着関係の形成の失敗、児童学童期に友達と十分交流出来なかったことなどに原因があることが多い。
最近の日本人は、愛着関係が希薄であるという指摘(ジーンレンガ―)もある。
ひきこもりの人は、コミュニケ―ションに絶望していて、疎外感が生きる喜びを奪っているのであり、その解決には親子関係、仲間との関係をゆっくり築きなおすことが、重要となる。
*思春期前半期(中学生時代)
思春期前半は、第二次性徴の発現と併行して、多感な人生の春の訪れを意味する。この時期の心理現象は多彩で個人差も大きく的確にとらえるのは難しいが、大きくは3つのテーマを想定することが出来る。
- 1) 児童期までとは異次元の性、2〉親から離脱自立する一歩を踏み出すこと、
- 2) 自他の間に新しい関係を作り出していく、ことである。
この時期の変化の根底にあるのは【性】であり、性的アイデンディティの形成が始まる。
ⅰ)自身の身体の変化に直面して、困惑、不安、罪悪感、混乱が生じ、ⅱ)異性の身体への関心が芽生え、性に目覚め、ⅲ)秘密の世界を持つようになり、ⅳ)今までのように他者と無心で接することが出来なくなり、新しく他者が出現して来て、他者のまなざしを意識し始め、他者の気持ちや立場を察することが出来るようになる。この中で性愛的感情のこもった、自我理想を希求する同性の友人を作ることで、親からの離脱によってもたらされた自我の弱体化によって、見失ってしまった自分を取り戻すようになる。そして親や教師の権威が崩れ落ち、建前だけの空疎な権威が通用しなくなるのもこの時期である。一方で空想が活発化し、無気力で内省的で自己への静かな集中、内向傾向を示す時期が繰り返し訪れる。
そしてこの間の中心的なテーマは両親からの離脱の開始である。
この過程は乳幼児の分離―個体化の過程と基本的には同じであり、マーラーが示したように分化と身体像の発達、練習の段階、最接近、個体化の確立の下位段階を経て達成される。
親と距離を置き、親の目を盗んで冒険を試みるが何回も挫折にみまわれ、親との肯定的な新しい関係が出来て行く。いろんな局面で、否定―肯定―統合という展開が繰り返され、万能的な自己認知が現実的な認知に代わってゆくのである。
サリヴァンの対人関係青年期論によれば、青年前半期には、真の性欲(性器的欲求)とそれに由由来する関心とが噴出し、やがて生殖行為の基本的形式が身に備わっていくのであるが、性欲は往々にして安定を脅かし、また親密さへの要求とは必ずしも適切に統合されず、葛藤を生じるが、それを乗り切って統合を図るのが青年前半期のもっとも基本的な課題であるとしている。
ブロスはこの時期を、3歳の頃に達成される個性化に次ぐ第二の個性化であるとし、心的構造の変革が生ずるという。児童期までの親への愛着・依存を脱して、新たに家庭外に愛情の対象を切実に求め見出す過程で根本的自我変革が生じる。親との一体感が失われる結果として親の機能の絶対性が緩み、より主体的に選ばれた、しかし自己愛的な性格の強い新たな価値規範(自我理想)が影響力を持つようになる。母親からの分離独立の過程は3歳時と同じように退行と前進を振り子のように往復しつつ次第に確立されていく。この過程は不可欠だが、脅威に満ちた厳しい課題であり、成功するためには児童期に達成された自我分化と成熟が退行中も心の周辺に在って自我を支え、現実についての的確な認知を完全に失わせないことが重要であるとしている。退行的状態に陥って、象徴言語によるコミュニケーションではなく行為言語に回帰して行動化すると家庭内暴力や種々の問題行動になったりするとしている。親や親代理とのきずなを断ち切って真に分離する過程では、親には甘えられないが、まだほかに甘える対象が見つからないといった宙ぶらりんな状態に耐えねばならない。この間は超自我(親の躾、良心、内面規範)の自我統制力が弱化し、親の権威に左右されないより普遍的な価値も道徳律も十分ではなく、愛憎や依存の対象が失われる結果、孤独感や抑うつ気分、内的混乱に陥り易く、これらの状態から逃げ出したいと無意識に強く望むようになる。これらの自我統制の弱化と逃避要求の気持ちが、問題行動に関与していると思われる。
この時期の心理的特質は、新たに自己のうちに立ち現れてきた、身体的、対人関係的、社会的な諸次元での決定的なある変化を、戸惑い、困惑、不安、期待、好奇心、希望等々の感情や態度を伴いながら、受けとめ同化し、またそれらに順応していく一連の複雑な過程が思春期の開始とともに動き出すことであり、漠然としていてはっきりとした形を成してはいないが、しかしそれらの変化が学童期までの経験とは全く次元の違うものであることを少年少女は承知しているのである。
*思春期後半(高校時代、17歳前後)
17歳という年齢は青年を代表するものとして文学作品の題材にもしばしば用いられるように、もっとも青年期らしい特徴がくっきりと出てくる時期である。
異性との愛情関係の確立がこの時期の切実なテーマであるが、それには必然的に個の確立が要請され、未来の自己がとるべき社会的役割を明らかにするというアイデンディティの確立がかかわってくる。
異性愛を成就するには一段と明確に両親との間の幼児的愛憎、依存の気持ちを断ち切らねばならないが、この際に対象放棄に伴う悲哀感情、両親との別れへの喪の気持ちが生まれ、この時期の抑うつ気分、悲しさの憂いを表出させる。
また異性に愛情を感じることが出来るためには児童期までの両性的傾向を脱し自分の性別に相応しい特徴を中心に統合された自己像を作りあげる必要がある。
生物学的に一応男であること、女であることと心理社会的に男、女として通用するかどうか、本人自身も自己の性に安心と満足を持てるかどうかは別の話であるが、青年期には「男らしさ、女らしさ」を身に着けようと、自覚的に自分の性役割に相応しい目標、理想を選び取り追求しようとする気持ちが起こってくる。
我々は児童期までは人格を持ったリアルな他者に出合うが、やがて青年期になると他者一般というべきもの、俗にいう世間にも通じる抽象的超越的な何かに出合うようになる。こうした他者一般が見えて来るのが思春期の特徴でもある。目に直接見える世界とその奥にあるより本質的な何かとが弁別できるようなるのも思春期の特性である。言い換えれば、他者との対人的距離をオモテ・ウラ(建前・本音)の二段構えを用いて適宜保って行くことを学び始めるのである。
*青年後期(19~22歳)
青年後期は歴年齢からいえば、大略18,9歳から22歳に当たり。大学生の時期がこれに該当する。
青年後期の大まかな特徴は、思春期がいずれかと言えば心理・生物学的な規定要因が強いのに対比して心理社会的な規定要因が増す時期ととらえることが出来る。
思春期において、ほぼ身体的な発達課題を達成し、自立をし始め、自我、パーソなりティの再編成を推し進めてきたが、青年後期ではその総決算を行い、社会の中での自分の役割や位置づけについての自覚を、さまざまな試行錯誤の中で見出していく。それは、自分は、この世で何をするべきであるか、何が自分の貢献できる持ち分であるかという問いであるのと同時に、自分は何者であるのか、何のために生きて行くのか、という実存的な自己意識であり、このような自我意識の形成についてエリクソンはアイデンディティの概念を作った。
<同一性アイデンディティ>
エリクソンは、フロイトの精神・性的な観点に、精神社会的な観点を加え、かつ対象関係の視点を導入して、人間発達の漸成説を展開した。母親との関係、両親との関係、友人・仲間集団との関係など、それぞれのライフサイクルに重要な対象との対象関係を発達段階に準じて、達成されるべき8つ精神・社会的パーソナリティ特徴のテーマをあげ、それが上手く達成されなかった時の陰性の状態とを図式化してライフサイクル理論を建てた。(図1)
同一性とは、このような自我と対象との関係の漸成説を基礎としてエリクソンが造出した概念である。すなわち同一性(アイデンディティ)とは、まず第一に自己の単一性、連続性,不変性の感覚を意味する。第二には、しばしば自我同一性と言う言葉で表現されるように、-エリクソンは必ずしも同一性と自我同一性を厳格に区別して用いているわけではないー乳児以来の発達段階で見られるように、各個人のそれぞれの段階ごとに獲得された意味のある同一化群を統合し、単なる総和ではない一個のまとまり、新しい同一性を作り出す自我の統合力を意味する。第三には、それは一定の対象、グループとの間で是認された役割の達成や共通の価値観の共有を通じて獲得された自己尊重感及び肯定的な自己像を意味している。
個人は出生以来、父母、家族などその段階ごとに意味のある対人関係の中で同一化を重ねることにより、自我発達をとげてゆく。この過程でそれぞれの家族同一性、集団同一性を形成し漸進的に自己の生活圏を拡大してきたが、青年期に至り、それ以前のすべての同一化や自己像を社会との関連の中でとらえ直し、選択・統合して、一つの首尾一貫した全体として形成したものが『同一性』である。
自我同一性とは、青年が成し遂げなければならない中心的仕事であり、彼がかつてそうであり、また現在なりつつあるものと、それから彼が考えている自分と、社会が認めかつ期待する彼と、これらすべてを総合して一貫した自分を作り上げることである。すなわち自我同一性は青年期に及んで結晶化し形成されたものであるが、その素材は個体の乳幼時期以来の数々の同一化を含んでいる。このような過去から由来するものと、現在の状況の中で与えられている機会と役割から自我同一性は形成される。
青年が確実な自分、自己定義を見出すに至るまでには様々な役割、価値を試行錯誤的に取捨選択する時間的余裕が必要で、何ら責任を伴わずに、そのような可能性を自由に試し得る期間を『心理・社会的猶予期間、モラトリアム』と言う。モラトリアムは緊迫感と危機感を持っているが、その危機を上手く乗り越えられれば、自我同一性を実現できるが、乗り越えられないときは「自我同一性の拡散・混乱」の状態になる。
*アイデンディティの確立:思春期において、人間は自分の体と心、そして自分の置かれていう歴史的、社会的環境との統合の中から、「自分は何者であるか、自分はどこにどう立ち、これからどうゆう約泡里と目標に向かって歩いて行こうとするのか」を見極めること(神谷美恵子)