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美容整心メンタルこころの研究室

エリクソンのライフサイクル⑥‐Ⅶ期 成人・中年・壮年期(35から55歳)―「世代性/停滞性」-過去と未来をつなぐ架け橋になり世代性を生きる

 自我同一性



アイデンディティを選択し確立してから、相手のために自分を捨てることが出来るような親密な関係性が持てるようになると、人は結婚し、仕事にも充実感を覚えるようになる。こうして人生本番への関所を通過すると、いよいよ人生の本番、最盛期が訪れる。壮年期あるいは中年期と呼ばれるおおよそ35歳から向老期までの55歳くらいまで時期がこれに当たる。

働き盛りは、これまでに育まれてきた心身の機能をフルに働かせて人生と取り組み、歴史と社会のかかわりの中で何らかの足跡を残して行く時期である。生物学的には子孫ということになる。エリクソンはこの現象を、あるいはこの期の危機的な課題をジェネラティヴィティ(generativity:生殖性あるいは世代性と訳されている)としている。

generativityは、子孫を生み出すことprocreativity、生産性productivity、創造性creativity、さらには自分自身のさらなる同一性の開発の一種の自己―生殖self-generationも含めて、新しい存在や新しい制作物や新しい観念を生み出すことを表しているとしている。それは何よりもまず次の世代を設け、これを導くための配慮を意味する。停滞感は、生殖的活動の活性を失った人達の心全体を覆うものであるとしている。

鑪幹八郎はこれを「次の世代を支えて行く子供たちを生み、社会に役立つアイデアを生み、それを育み、育てて行くことへの積極的な関与」であるとしている。

佐々木正美は「前の世代の人から、その人体達が生み出した文化を学び継承する。そしてその上に様々な業績や創造を積み重ね、新たに生み出したものを自分たちが生きてきた証として次の世代に譲り渡す、これがエリクソンの言うgenerativityである」としている。

壮年期は,先代に学び後進に託する世代性を生きるのである。このサイクルは次の世代のライフサイクルと交叉するのであるが、これを自覚し、次の世代への関心、関与が無いとき、わたしたちの生活、社会的活動は停滞し、むなしい自己愛的な陶酔しかなくなる。

 生殖対停滞という対立命題から現れる「徳」は「世話」であり、それは、これまで大切にし来た人や物や肝炎の面倒をみることへの広範な関与をいう。

成人期では、男も女も自分が何を誰を心にかけるcare forことになったか、何を成し遂げたいと願うcare toか、自分の作り生み出したものをどういう風に世話するtake care of方針なのか、を自らはっきりさせねばならない。このcareこそ壮年期の生殖対停滞という対立命題から現れる「徳」または「力」としてエリクソンが考えたものである。これは人間に備わった自然な力であろうし、生み出したものに対してあと後まで責任を負い続けることに、心は張り合いを感じ、真に生きている実感を持つが、これがうまく果たされないと、沈滞感、退屈感、人間関係の貧困、自己への没入などが生じるとエリクソンは言う

世話が本能的エネルギーを持った活力のある協和傾向の表現であるとするならば、それに対する不協和傾向が存在する。老年期ではそれは侮辱であり、成人期では拒否性、前成人期では排他性として現れる。世話は人間の本能的な協和性を表し、拒否は本能的な不協和性を表す。それは特定の人間や集団の世話をしたくないということであり、本能的な世話を洗練して行くとき、もっとも近しいもいのを好むというように選択的なものになるという事実は、人間は、ある程度明確な拒否性を有するということになる。ある程度選択的にならないと、何者かに対して生殖的であり、かつ世話に満ちているという状態にはなりえないという。

30代後半から40代始めという時期は、青年期の感情の波も収まり現実への適応が増す時期ではあるが、家庭や職業への責任感と執着から来る悩み葛藤と老化の兆しへのおびえが出てきて、それが「中年の危機」と呼ばれものである。(エリオット・ジャック)

小此木圭吾は、この期には上昇停止症候群(青年期以来前提となっていた「年と共に地位が上がり、収入が上がり、社会的な力が強まり、家庭も豊かになる」という思い込みが突然破たんすることによって生じる心身の症状をいう)の到来とともに、青年期に獲得し、これまで選択以前の当然のこととみなしてきたアイデンディティが正しかったのかと改めて自覚し、それを選び直す自由が与えられるとライフサイクルの危機が訪れるという。これが、ライフサイクルから見た中年の危機であり、この惑いを現実適応的に乗り越えて自己肯定が出来るのが「不惑」といわれるものであるという。

人によってはここで新しい境地に踏み出し、大きな創造性を発揮することもあるが,多くの人では、この時期に新しい自己像を受け入れることは困難な課題であり、このアイデンディティの危機は老年に近づけば、更に強いものになり、向老期が第二の思春期といわれる所以であるが、私はこれを「思秋期」とするのが相応しいのではないかと考えている。

平均寿命の延びた現代では、子育てが終わったからといってじっとしているわけにはいかない。一生を貫くほどの生存目標がなかった人は、ここで一旦孤独になってみて、今後の生き方について自問して見る必要があるのかもしれない。

自分に残されている半生を、本当に自分がやりたいこと、なすべきことに捧げようという意味で方向転換し、自分にとって本質的な事やろうという思いに駆られることもあるだろうし、それがユングの言う自己実現ではないかと思う。生物学的には下降線にありながらも、人間は内面的には上昇し始めるのを見ると、ポルトマンが言うように、「人間はただ社会的条件や生物学的に還元してしまえないところがある」ことがわかる。それは人間が、家族や社会に対して生きているだけではなく、自分、自己とも相対して生きているからである。

 神谷美恵子は、人生の旅路半ばで悩み多い所に差し掛かっても、その悩みをバネに、意思と決断と選択によって敢て冒険をおかしてより建設的な、より創造的な生き方に切り替えられるならそれは決してマイナスな生き方ではない。過去を切り捨てられない不決断こそ、人生後半を悔いの多い、愚痴の多いものにしてしまうおそれがあり、これは青年期より一層深刻な危機であろう、と言う。

 壮年期の終わりは向老期に接している。人生の半ばに一息ついて、余生をどういう風に使うか、と自問し、計画の練り直しをするのは現代に生きる者としては人間らしいことである。まだまだ時間も体力も残っている。問題は、迫りくる老いそのものより、それに対するおびえ「予期不安」の方にある。それは定年を前にしたサラリーマンの神経症、更年期うつ病などでよく見られるところである。

 人は皆が皆、青年期から壮年期にかけ順調に上昇し、ある程度の達成感の後で、上昇停止症候群に襲われ、実存的な悩みを持つわけではない。青年期に描いた目標に達せず、やむを得ず目標値を下げても、それにも達せず、さらに下げても達することが出来ず、負のスパイラルを描くような下降線のやるせない壮年期になることもある。これを私は「墜落症候群」と名づけているが、ここでは自信喪失と既成の自己の崩壊がおきるから、もし新しい自己を実現しようと内面的な心情のまま行動してしまうと社会不適応をもたらす恐れがあるので、ライフサイクルの危機となりうるのである。

 壮年期は、表向きが順調であろうとなかろうと、アイデンディティの危機であることに変わりはないようである。