エリクソンのライフサイクル⑤‐Ⅵ期 前成人期、青年後期( 23-35歳) ―「親密/孤立」―親密性を持つこと、家族や同僚との結びつき、結婚に人生をかけ、価値を見出す
青年中期、思春期後半の後の18歳から35歳くらいを青年後期、エリクソンでは前成人期としている。
ピアジェによれば、女性は18歳、男性は20歳が知力体力のピークであるとされ、ここで両性が結婚してもおかしくはないが、実際にはからだとこころの発達のズレのためにかなり長い間こころはからだにゆさぶられて、これと意識的または無意識的に格闘しなければならないという。
アイデンディティの確立後の成人(中年、壮年)に至るこの期の人間関係を満たすためのテーマは、エリクソンは「親密性」連帯性であるとしている。同時にこの期間は神谷美恵子が言うように職業の選択、恋愛、配偶者の選択という「人生本番への関所」が構える時期でもある。この時期は多くの人が社会に出て行く頃であるが、今までよりも人間関係で親密な関係性を持つことで、自分の価値を見出し、社会に価値を生みだして行く、というのがエリクソンの考えである。
仕事では、相手と連帯する中で、相手の為に自分を与える(自己放棄)くらい信頼できる親密な関係性ができると仕事も非常に上手く行き、生産性も非常に高まるとしている。
親密性は、恋愛においては特に孤独を癒すものであるが、相手の中に自己放棄できるような域に達すると(スタンダールの言う結晶化であろうか)、結婚という形で相手に自分を賭けることが可能になる。自分を放棄することが可能になるには、放棄しても自分を失わない強い自我、アイデンディティが確立している必要があり、従って思春期・青年期に上手くアイデンディティを選択し終えて、強い自我が出来ていないと、親密性のある人間関係が出来ず、孤立し孤独感に苦しむことになってしまう。孤立の孕む最大の危険はアイデンディティの確立が揺らぎ退行してしまい、青年期・思春期の葛藤が再燃してしまうところにある。
しかし、現代では精神社会的猶予期間(モラトリアム)の延長がこの期にずれ込むことしばしばみられ、それは非婚であったり、結婚しても容易に離婚する等の現象として現れている。
エリクソンは、人生の各時期の危機的な課題を見出して、ライフサイクルモデルを描いたが、それはその時期、時期に合った人間関係を満たす必要性をいうものであり、またサリバンは、人間は自分の存在や意味は人間関係の中にしか見い出せないと言い、ともに生きていく上での人間関係の重要性をいっているのである。エリクソンの各期に示された課題は、人間関係を満たしていくための危機的課題であり、行動の指標でもあるといえる。
人間にとって必要な人間関係はエリクソンが示したように、時期によって異なっていて、乳幼児期は、母親あるいは母親的な人との関係が重要で、児童・学童期では母親より友達が大事で、中学生くらいに(前思春期、思春期)になると、多くの友達よりも仲間、親友、尊敬できる先生が大切になってくる。前成人期・青年後期になると仲間や同僚に加えて新しい家族との関係を築き始め、仲間の中から自分を賭けられるような相手を見つけ結婚していく。
思春期・青年前・中期の身体的心理的激変に続いて前成人期・青年後期の職業の選択、結婚というような社会的・個人的課題の重さに耐えるには、生まれ付きの素養はもとより、どのような環境で生まれ育ったかという、それまでの成育環境が大きくものをいう。
それらになんらかの問題があると前成人期を順調に乗り越えられず、社会生活に支障を来たしたり、あるいは精神障害を来したりするので、精神医学的には、この期は一つの「危機」として捉えられている。
青年期の難関をどう切り抜けるかは人さまざまで、遊び半分でというほどの身軽さや形式的とでもいえるようなそつなさで潜り抜ける青年もいれば、悠然と構えるもの、不器用に試行錯誤を重ねて泥まみれになるものもいる。まさしく千差万別である。
日本の教育制度では、一般的にアイデンディティの選択、確立が出来る前に、将来の方向性を決めてしまう大学の進路を決めなければならないし、いったん進学してしまうと、専門教育に突き進むという現在の国の施策に大きな問題があるように思えてならない。現在の学生には、広く自由にリベラルアーツ(一般教養)を学びながら、苦悩しつつ自己のあり方を見出していく余裕が与えられていないのである。これは成人期にまでモラトリアムを持ち越す大きな要因になっていると思う。
小此木啓吾は、ライフサイクルにおける成人期の意味合いが変わり、青年期にアイデンディティを選択するという大きな山が一つであったのが、成人、中年から向老期、老年期に向かってもう一つの山が現れるようになったという。アイデンディティの見直しである。(というか、前述のようにアイデンディティの持ち越しであるのかもしれない。)現代は厳格なアイデンディティの確立とそれに対する忠誠心を最高の人間的価値と見做す時代ではなくなり、常に自己の可能性を豊かに残し、現在の自己の在り方は多数の自己の在り方のひとつであって、次の年代や時代ではまた別の自己の在り方がありうると思うようになった。「あれかこれか」で来た人間が「あれもこれも」で常にいろいろな可能性を養い、時ところで柔軟に発揮しようとする、こうした心理構造をもった人間を小此木はモラトリアム人間とし、現代社会の心理的性格の特徴でもあるとした。
すべてが一時的、暫定的として捉え、最終的な自己決定を猶予して、できるだけ多くの可能性を残そうとする。これは自発的というようより、社会の変化に順応した生き方と言えるかもしれない。社会は一貫した揺るぎない生き方より、時代に順応した新しい自己を登場させていくような活力を必要とするようになったのである。
その為に人々は自己選択の危機が繰り返し訪れるため、不安から安らぐことはなくなった。
それは、自分の発達、変化を超える時代の変化の速さが常に眼前にあり、旧来の終身雇用制、大家族制が失われたことで、一貫した不変性、安定性が失われたことと関係するだろう。ある年齢からは、自分以外の周りの力で支えられて生きて行くというエトスが無くなったためか、現代人は常に備えていなければならない、変化に対応しなければならないという切迫した宿命を抱えることになったのである。
従って前成人期の在り方も変わらざるをえない。
過度な親密性、自己放棄はためらわれるようになったし、自分が選んだアイデンディティに忠誠を尽くす必要性は薄らいだのである。
アイデンディティは容易に可塑性をもつようになり、青年期に選択し確立したもので一生を貫き確固たる人生を送ることは困難になった。
幸か不幸か、人は常に自己の在り方を見つめ直しつつ生きる時代になったのだろうと思う